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ぼくはなぜこうなったんだろう。

ぼくはなぜこうなったんだろう。


(こうなったというのは、ものの考え方とか佇まいとか。
暮らし方とかなどのこと)


ということをふと考えてみた。

そして、それを自分のことばで表現したいと思ったから。
ここに書くことにした。
あくまでこれはぼくの今まで、そして内にある想いを綴ったものだから。
人が感じている僕とは。
知っているその姿とは異なるかもしれない。
しかし本人が紡いだこのことばたちは、ぼくの、ぼくとしてのひとつの姿であるように思う。



思ったことや、感じたこと。
それをことばにしたり、表情に出したりすることで。
己の気持ちは、あいてに伝わる。


しかし普段の生活の中で、そうしないことは時々ある。
やり過ごすことを覚えた僕は。
あいてによって、自分を出さなかったりもする。
ときに自分の感情を隠したりもする。

たとえば。
高圧的であったり、丁寧さに欠けたり。
はっきり言うなれば、明らかに偉そうだったりすると。
さっと身を引く習性が僕にはある。
もちろん、相手がそうだと自分もいやだから。
己の内に、丁寧さと謙虚さを備えた人で在りたい。
と、こころのなかで意識することが多い今日この頃。

自分が誇りをもってやっていることに関して語るときは、ときに情熱的になりすぎて。
はっと気づき、冷静になってみると恥ずかしく感じたりすることもあるけれど。
少なくとも、誰かと対峙するときには、相手の方にとって心地よく在りたいものだ、と思っている。

話がすこしずれたけれど。
仮に初対面であっても。
感覚的な部分で共鳴した場合は、意識せずに素の自分が出ていることにふと気づくことがある。
つまり、相手の佇まいがすてきで、心地いいと。
いつの間にか自分も素直で、丁寧でいられることが多い気がする。


時に、わかったようなことを言うひともいて。
そういう、ものの言い方をするひともいて。
多少、丁寧さにかけるというか。
慮ることに欠けるひともいるのは事実だ(自分もそういう時があることも含めて)。

世の中、いろんな人がいる。
いい人も、賢い人も、ずるい人も。
そんな中、いろんな人に出会うことで。
目は磨かれていくのかもしれない。


人と対峙して。
お話しを伺うということ。

僕の場合は。
自然の中でのいろんな魅力を知り、それをじょうずに利用し、かつ次世代に残しながら生きている人たち。
つまり、いなかのおじいちゃんやおばあちゃんに話を伺うことが多い。
その行動や姿から、多くを学ばせて頂いている。
単に“もの知り”としての生きる知恵や経験だけでなく。
己の在り方や価値観として、勉強になることが多い。

僕より何十年も長く生きた人たちの、語り口、その物腰。
一言一言に、経験を重ねた故の説得力があり。
かといって偉そうではない。
でかいこというのとは違う、確かな重みがそこにある。

実体験を伴うから、話に躍動感がある。
ときに、生き物との知恵比べや大怪我などの昔話もあり。

それはやっぱりおもしろく、とてもすてきだ。
ぼくはそんな昔の方々がとてもすきで。
だから、自分から話かけて。
最初はどこの馬の骨だと警戒されながらも、お話を伺ったりする。
いつもではなくて、ピンときたときに。

それは、その人の農作業の姿や、木を伐る姿であったり。
竹細工を編む姿だったりする。
猟友会の帽子をかぶった高齢の猟師さんだったりする。

自分の知らないことを、やっている人や。
知ってることでも、それと違うやり方をしている人。
そんな方を見かけ、自分が気になり、かつ相手も忙しくなさそうなときに。
話しかけさせてもらう。

そのときに大事にしているのは。
まず、できる限り相手の邪魔にならないようにするということ。
忙しいそうに仕事をしている人には、遠目に見て、ひたすら見つめて技を盗む。
なんとか、少しでも自分のものにするために。

大丈夫そうな方には、話しかけさせて頂く。
あくまでも、“~させて頂く”。

そこには、相手への尊敬と感謝の気持ちが自然にある。
丁寧なことばで、かつ目を見て真っ直ぐ声を掛けさせて頂くと。
分かる方は分かって下さる。
(伝わらない場合は、無理には尋ねない。
さっと身をひくのも大事だと思う。)


そして、まず聞く。
聞く、ひたすら。

そうして耳を傾けて、手元のメモ帳にみみずの這ったよりもひどい、自分にしか見えない字で書き殴る。
書くだけでなく、同時に。
その中で強い興味を抱いたものは、ほとんど自然に頭に叩き込まれる。
後で忘れないように、“自然に”できる。
これはこれで、ひとつの特技かもしれない。
但し、自分が強い興味を抱き、自分のものにしたいと思ったものに限る。

そして、ひとしきり聞いた後で。
気になるところを尋ねる。
そしてそれぞれの点をまた教えて頂く。

そうして、僕は残してきた。
その中でやりたいものだけ、真剣にやってきた。
そうして、腕に培い、本気でやり続けて自分のものにしてきた。
これはひとつの誇りとして。




誰かに話しを伺うということ。
そのときに。

“○○だよね~”と言う人がいる。
もちろん、それが正解だったり、正しい場合もある。

これは個人的な感情であるものの、僕の場合。
それを言われたとき、ちっとも嬉しくない。
はっきり言ってしまえば、“おまえに何が分かる”という憤りに近いものだ。
これは、決して全ての事柄に関してではない。
とりわけ、自分が誇りをもってやってきたことに対し。
そのような言い方をされると、気分を害するというものだ。
物事の一部を知り、分かったような気になっていることがどれだけ多いことか。
知ったような気になって、決めつけてかかることは、怖い。



このことばを人に言われるたびに。

僕の場合は、情けないことに。
黙ってしまうこともある。
あくまで、個人の受け取り方の問題だけれど。
僕は、それが苦手である。

それと同時に。
痛いくらいに感じる。
“自分は気をつけよう”と。


父がよく言った。
“ガキがなに抜かしとる。分かったような気になって、偉そうなことを抜かしとったら自分の株が下がるぞ”

そうだなぁ、と今思う。
ものを知ってる人ほど。
その知恵や知識をひけらかすことなく。
でしゃばることなく。
にこにこして、黙っている。

そして相手がほんとうにそれを必要としたとき、自然に手をさしのべる。
つまり、相手をよく見てる。

僕の師匠たちは、そんな人たち。
そうして、僕を育ててくれた。
それは、教えることとは大きく違った。
あの師匠たちがいてくれたから、僕はこうなれた。



話をもとに戻すと。

寄り添うということは。
慮るということではなかろうか。

つまり、相手の言ってみえることに対し。
丁寧であるということ。


仮に相手が言ってみえることと似たことを自分が知っていたら。
“○○ということですか?僕の地方では○○というやり方ですが、それと一緒ですか?”
と尋ねる。

そう聞いて。
“そうそう、それよー!”
とくるか。
“それは●●じゃろ、それとは違う。これは、こういうことだ。”
とはっきり言ってくれる。

はっきり違うと言ってもらえば、自分の知恵や知識のひきだしがまた増える。
いや、引き出しの中身が重くなると言ったほうが適切だろうか。

あくまで、~させて頂くのであって。
いい気になって相手をたてることを忘れてしまったら、自身が腐っていくように思う。




こんなことを考えてしまうから。

自分が書いたものが本として生まれることになったとき。
とても苦しかった。

あんなに苦しい思いをして、情熱を注いで。
一生懸命になって、たった一人の先生のために今までの半生をまとめたもの。
それを世に生み出したいと出版社の方に言って頂いたとき。
動揺もしたし、怖くもあった。

しかし、それに本気で向き合い。
だいすきになった編集長が、一年と4ヶ月もの編集期間をかけて。
僕のことばを活かしてくださったことで。
素直な気持ちで、自分の大切な人たちに知ってもらいたいと思える本を生んで頂くことができた。


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これは原文の一部をまとめなおしたもので。
全てではないけれど。
長い時間をかけて、出版社のみなさんのおかげでこの世に生まれたもの。
そして僕にとっては名刺代わりともいうのだろうか。
読んで頂いたら、僕自身がきっと伝わると思えるものだ。
こんなすてきなものを、この年齢で創って頂けたことに対し。
あらためて、感謝の気持ちをお伝えしたく思っています。





さて、こんなことをきっかけに。
なぜだか少し注目を受け。
取材というものの話を頂くようになった。

本というものを売る上では、多くの紙面に取り上げてもらうことで。
より多くの人の目に触れ、興味を抱かれた方に手にとってもらうことが大切だと思う。
そうして、本は売れていくのだと思う。

しかし僕は、はっきり言って取材というものが苦手だ。
もちろん、相手によるけれど。

たぶん、警戒心がそれなりに強いと思う。
そのため、相手がどんなひとか出方を窺うところが昔からある。
感覚的な部分ではあるものの。
今までから磨いてきた感覚にふれてしまうと、すっと離れるところがある。

そのため、取材の話がきたときも。
どうにも苦手な方の場合は、はっきりお断り申し上げたこともあった。
丁寧な言い方をすればこうだが。
いわば、“勘弁して下さい”と。

こんなわがままな著者の願いを、本を作ってくれた編集長はいつも聞いて下さった。
“福ちゃんは、福ちゃんでおったらいいんよ。もしそこで身の丈を越えたら、別物になっちゃう。それに福ちゃんに無理をしてもらうのは嬉しくないから、違和感を感じたらはっきり言ってね”と。

そう、その違和感を感じたときだけは。
お断りさせて頂いてきた。
というのは。



自分が、自分の体験や生き方を元に、己の意志で紡いだことばたちを。
そのひとが自分のことばで勝手に解釈し、変えてしまったら。
それは僕が生み出したことばと別物になってしまうように思う。
それに、字数の関係だとかで。
文章を短くしたり、言い回しを変えたりしたら。
それは、また別のことばになる。

ことばの一人歩き。
その怖さ。
取材という名での、搾取。
記者の方が求める言い回しやことばを、無理に言わせようとする誘導的な聞き方。
自分なりの解釈による勝手な決めつけ。


こちらから広げて下さいと、頼んでもいないのに。
勝手にそんな風に解釈されて世の中に放出されたらたまったもんじゃない。

こちらとしては、名声がほしいわけでも、有名になりたいわけでもない。
こころにかなう暮らしを続けていきたいから。
日々、一生懸命に働き。
こころ穏やかに過ごしているというだけ。

でも中には、3ヶ月もかけて。
小さな記事を書いてくれた方がいた。
その方はとても謙虚で。
かつ、あたたかい方だった。

何度も会いに来て下さり。
僕のことばたちに寄り添ってくださった。
僕はそのひとの前では素直になれたから。
時間を一緒に過ごしながら、自然の中での自分を見てもらって。
語り合ったというだけ。

そしてあの方は、自分で見たものや聞いたこと、感じたことに。
丁寧に、真摯に向き合い。
きっと、たくさん悩み。


月日が経ち、あの記事が生まれた。


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僕はこの記事に、一切注文をつけていない。
訂正も、何もしていない。
あの方が自分なりに、僕を書いてくれたもの。
だからこそ、この記事をはじめて拝見したとき。
ぐっときた。

この記事は、全国の地方紙に載り。
地元の師匠たちにも届き。
“生き生きと暮らしているよ”
という福田からの手紙のような存在になった。
とても、有り難い。


この記者さんは、ぼくに教えてくれた。
肩書きの前に、一人の人であるということ。
その意味を。

一人の人として、向き合い、その時間を大切にしてくれたことで。
僕もこれからきちんと佇んでいたい。
そうこころに思った。

この方は、女性だったが。
性別が女性だからというわけではなく。

ひとりの人として、魅力を感じた。
滲み出るやさしさや、ぬくもり。
なにより、尊敬の気持ちが自然にあった。
彼女に対しては。
それは、彼女の佇まいがすてきだったからだと思う。

仕事場が高知を変わられるそうで、今はどこにいるか存じ上げないけれど。
場所は違えども、あの方にその時々の自分を知ってもらえるように生きていたい。
今ここに、感謝の気持ちを添えて。




ほかにも、だいすきな友人たちがブログに書いて本を紹介して下さったり。
読んで下さった方々の口を介して、また身近な方々に広がっていったり。

これ、いなかからのお裾分けです。



南の風社(出版社)



恵比寿日和





こうして、ほんとうに素敵な人たちのおかげで。
少しずつ本は自然に世の中に流れて広がりつつあり。
福ちゃんの本は旅しているようだね、と編集長が笑顔で言った。

僕は、それがとても嬉しい。
自然な流れのなかで、あの本を必要として下さる方のもとに本は旅していく。
作者として、こんなに嬉しいことはない。







うん、なんだか。
途中は小難しい話になってしまった。

簡単にいうときっと。
今までのことに感謝し。
これからのことは。


いくつになっても日々勉強で。
いろんなことを吸収し。
素直で、すてきな人で在りたいものだな、という話。

ん、ちょっと贅沢な望みかしら。

でも、意識を持って日々生きるのと。
高望みとは違う。
だから、自分の思う佇まいを大切に歩んでいたいのです、ぼくは。




さて。
自然に遊んでもらいながら、真剣に向き合って。
本気でやってきて、20年。

オオスズメバチの巣を探し、巣を獲るという伝統的な遊びに関しては。
おしめをあててる頃から父たちに連れていってもらっていたという。
そして、今も変わらず、一人でやる。
そこに、己の本気さ、真剣さを懸けて。
生きる実感を求めて。

自然薯も掘るし、マツタケも探す。
ワサビも採るし、タラ、ウド、ゼンマイ、ワラジ、ハチク、イタドリ、ミツバ、山ミョウガ‥。
海はエガニ、マダコ、ヒラメ、ブリ、カサゴ、イカ、岩牡蠣にアサリ、ワカメ、長太郎貝‥。

いろんなことを、季節を通してやる。
すきなんだね、そういうこと。
そして、そのもの自体が。

ぼくはどうして、こんなに自然のことに興味を持って。
自然と共に暮らす人の知恵を身につけ。
こうなったのだろうか。



そんなことをある方と話す機会が最近あった。


彼は言う。
“おまえと遊ぶと、楽しくて、美味しくて、心地いい”

なるほど。
そうか。
そうだなぁ。

僕自身、楽しくて美味しくて心地いいことを大事にしてる。
それも、身近なことで。
大きな銭を使ってとかじゃなく。
周りの自然のことで、自分の持つ経験と知恵を駆使してできること。


知恵と技を身につける。
そんで、磨いて磨いて、自分のものにする。

そしたら、自然の中のいいものを。
自分の力で、手に入れられる。
もちろん頭も使うし、汗もかく。
それだけではなく、怖い思いもする。
戒めを受けて、失敗を繰り返して。
やっと、自分で“なんとか”できるようになる。

そうして、今まできた。
すきですきでやり続けて、いまふと振り返ってみたら受け継ぐことができていたというこの感覚。




いいもんを手に入れるには、通常お金が掛かる。
幼い頃から、今まで。
今も、まだ学生だから。
買うにはお金が掛かりすぎるから、自分で手に入れられるようにしてきた。
必要なときに、必要な分だけ。

学校行く前にヒラメを釣ったり。
学校帰りに潜ってウナギを捕ったり。
夜に家の前の川でエビを捕ったり。
そのうち、イノシシも獲るようになると思う。

それは、そういうもんがほんとうに美味しいから。
自分のなかで、心からいいと思えるから。
だから、季節ごとに必要なだけ頂いて。
自分で食べ、大事な人にも、日頃の感謝の気持ちを込めてお裾分け。
そこに、分かち合う幸せがあるから。


でも。たとえば。
ウナギなんかもろうてどうならぁという人もおる。
つまり、自分がいいと思っていても。
それは自己満足にすぎない場合があるから。

でも、周りにおってくれる人。
集まってくれる人たちは、そこをすきでいてくれるひと。
僕の生き方、そして一緒に過ごす時間をよしとしてくれる人々。




そういうひとが周りにおってくれるから、成り立つ。
そういう方がいてくれることに、感謝せんといかんぞ、おまえは。
と最近その方びしっと言ってもらった。
しゃきっとなったよ、ぼくは。


逆にいうと、そうやって若造であるぼくをかわいがってくれる人たちに。
顔向けできなくなるようなことはできない。
というより、したくないし、しちゃいけない。


いい気になったら、いかんなぁ。

と切に感じた今日の夜。

かわいく在ろう、人として。
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プロフィール

atsutaya

Author:atsutaya




生粋の里山育ち。


*ククリワナ猟でイノシシやシカ。
*魚釣り、時に潜りとジゴク漁。
*貝にワカメにカニに山菜。
*秋はひたすらオオスズメバチ追い。

巡る季節のなか、自然に遊んでもらいながらも真剣に。
そんな日々の暮らしを綴るブログです。

著:(これ、いなかからのお裾分けです。)

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