スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

親の姿。

家族のなかにおいて。
自分に、何ができるか。
どうしたら、必要としてもらえるか。

けっして口には出さなかったけれど、いつもそのことは頭のなかにあった。

“やすたけはウナギ釣りに行ったお父さんが、橋の下で見つけて拾ってきた子”
ということばたちを信じていたのは、いくつまでだっただろう。
小学校、何年生だったかな。

兄姉達は、厳格な父のもと、しっかり勉強した。
スポーツも、とことん打ち込んでいた。
結果として、いい成績を叩き出す。

その姿を見て育ったぼくは、負けじと張り合った時期もあった。
でも、なぜだか気合いが入らず。
どこかで手を抜いていた。
試験勉強だって、一夜漬けばかり。
そんな程度だから、兄たちに勝てるはずもない。

“あんたはいちばん勉強せん”と母に叱られても。
人並み程度にしか勉強はしなかった。
熱意が湧かないもんだから、気持ちを注ぐことができなかったのだと思う。

幼い頃からだいすきだったのが、本を読むこと。
とくに、猟師や漁師のはなし、自然誌がすきで。
その世界に夢中になってた。
つまらん授業の最中は先生の目を盗んで、机の下で本を広げて読んでいた悪ガキでもあった。
そのおかげで、勉強しなくても国語の試験だけはよくできた。

本を読みながら想像し、その世界を頭でひろげる。
そして、それを実際にやってみる。
そうして遊びながら、少しずつ自分のものにしていった。

そうそう、腕利きのウサギ猟師の話があってさ。
その中に、ワイヤー一本ですっこけを作って掛ける罠が載っていた。
野ウサギなら裏山にもいるわけ。
そこで真似して罠を手作り。

裏手の山に通って、野ウサギ相手に知恵比べ、ってとこだ。
まずウサギの道を見つけ。
そこに罠を輪にして掛ける。


父の針金をくすねてやってみたら、しならないからか見えるのか、何度やっても掛からない。
釣り糸で試してみたら、針金より掛かりはいいけど切られてしまう。
そこでまた別の本に出会い、ピアノ線がいいと聞いた。
そんなものは、我が家にはない。
そこでまたまた、手を変え品を変え、身近なものを用いて野性に挑んでいた。

そんなことばかりしていたのは、なによりそれがおもしろかったから。

すきだったから、やり続けていた。

その一方で、家族のなかにおける寂しさのようなものを、強く感じていた。
同時に、劣等感も。
何をしたら叱られるか。
何をしたら、喜んでくれるか。

こうして家族の顔色を窺いながら生きていた時代は、とても長いものだった。
すべての兄弟と仲良しなわけでもなく。
学校で話しのあう友もおらず。
かといって、群れて馴れ合うことを頑なに拒んだ。

でも、真剣に、一生懸命、情熱を注いで。
自然に遊んでもらった日々のことは、腕に残った。
やった分だけ、確実に。
それしか残らなかったといっても、やり続けたことで“それ”が誇りに思えるものになった。
それも今になって、ようやく。

振り返ってみたら、20年掛かっている。
ということになる。



ぼくは、なんのために生きているんだろう。




そう、自分に問うた。
幾度となく。

情けない、という気持ちも強くあった。
染みついた、劣等感か。

誰かに必要とされたい、と思ったりもしていた。
こころの叫びとして。


それを誰かに言えもせず。
いや、言えるはずもない。


だからこそ、磨いてきた。
劣等感を糧にして、自分にしかできないことを。
とことん、伸ばしてきた。

それはきっと、恐かったからだ。
自分が、これだ、と思えるものがほかになかったから。
勉強でもなく、スポーツでもなく。
自然と関わる人の知恵を自分のものにし、それを活かして家族の支えになる。
それでしか、自分の身を立てる術を知らなかったから。


そんなぼくは、やり過ごすことを知った。
おちゃらけて、ごまかすことも知った。

その一方で、人を見るようになった。
己が臆病であるあまり、相手を窺う。
それは、染みついたものであるように思う。

“この人は無理だ”
と思ってしまったときは。
さっと身を引いたりもする。
滅多にないけれど、あまりに相手の押しが強い場合は。
身を守るために拒絶してしまうこともある。
敢えて、顔に出したり、とかね。




誰かが言った。
“福ちゃんは、ほんとうに警戒心が強いね”

まるで僕が野性動物か何かのように。

でも、それはあながち間違ってないかもしれない。
感じる人には、自身の持つ警戒心が伝わってしまうのだと思う。


だがしかし。
警戒心が強いということは、短所であると同時に。
長所でもあると思う。
相手がどう感じているかを気にすることで。
人を慮ることができるかもしれないから。
臆病だからこそ、誰かに対して丁寧でいられたりもする。


こんな僕は、人が恐い。
誰かを信じられないとか、そういうことではなく。
人は、分からないものだと思うから。

以前、“分かったふりをされること”に関して記事を書いた。
自分もされるのが嫌だし、できる限り安易にしたくない、と。

それはつまり、そういうことだ。


こうして今、このことを書けるのも。
父や兄達に対し、真っ直ぐ向き合えるようになったからだ。
もちろん、ある程度ではあるけれど。

それは先日、兄姉全員と会ったとき。
今までの自分をさらけ出し、素直になれた。
こころがかるくなった。
そのときのことを思い返しただけで、溢れそうだ。

今まで向き合うことから逃げ続けていた僕にとっては。
このことが。
はかりしれないくらい、大きな意味を持つ。



これは僕の一部でしかない。

思いついたままに書いたから、抜かりもある。
たくさん。


でも、事実のひとつではある。




誰かが言う。
“福ちゃんは、すごい。”
それに対して、嬉しいと思えることはまずない。
本当に心が通い合っている友を除いて。

自分のなかで、自身や事象に対して。
“よし”と思えるまで。

誰がなんと言おうと、それは別物だ。
つまり、自分で納得できるまで。
そこまでやらなきゃ、自分で自分をほめてはあげられない。
自分をほめるために生きている訳ではない、が。




つまりぼくは、こんな面もあり。
ぐじぐじ悩んだりもする。
特に、でかいことの前は直前まで悩む。
心配で、臆病で。
でも、直前になって腹が据わったら、強い。
そうなったら、そのままの自分を出せる。


立派なにんげんでもないから、誰かに偉そうなことは言えない。
それは、講演の場を頂いても。
自著の、タイトルも同じ。

ただ、一人の人間の歩む生き方を見て。
結果として、何かを感じて下さったり、手を添えることができたなら。

それは、素直に嬉しい。


いま、こうして。
自身のことを振り返りながら思うのは、父と母。

この存在が、どれほど大きいことか。
素直に、父や母に対して感謝の気持ちを持てたのは大学に来てから。
そして、恐かった父と素直に話しができるようになったのは、この初夏。
一緒にウナギ釣りに行きながら、語り合った。
仕事のこととか、結婚のこととか。
知らない父の姿を、たくさん見ることができた。

自分で作っていた壁が、自然に溶けて。
いつしかぼくは父の前で自然体になった。
とても、嬉しかった。

素直なきもちで。
やわらかな気持ちで。
両親に対して、ありがとうの気持ちが浮かんでくる。
そんな親の姿、在り方を見て。

こんな親に、僕もなりたい。
と思った。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

atsutaya

Author:atsutaya




生粋の里山育ち。


*ククリワナ猟でイノシシやシカ。
*魚釣り、時に潜りとジゴク漁。
*貝にワカメにカニに山菜。
*秋はひたすらオオスズメバチ追い。

巡る季節のなか、自然に遊んでもらいながらも真剣に。
そんな日々の暮らしを綴るブログです。

著:(これ、いなかからのお裾分けです。)

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。